その時々で必要な情緒の発達・成長は、後から取り戻せない

35年間で13回と引っ越しの多い人生ですが、生まれてから2回目の引っ越しで都会から田舎へ移住することになりました。

断片的にその頃の記憶があるのですが、覚えているのは、移住先へ向かう新幹線の車内で、喫煙車両から煙がモクモクと出ており、その臭いが禁煙車両にまで流れてきて、他の乗客が食べていた幕の内弁当の匂いとコラボして気分が悪くなったことです。

そんな移住先は、山の中の限界集落的地域にあったボロボロの家。

狭い集落の同世代は女の子ばかりで、いつの頃からか仲間外れにされていて、家に上がらせてもらえないことがよくありました。

自分の性格が悪いのと、最近ボロボロの家に住み始めたよそ者だから嫌われているのかと思っていましたが、後になって祖父の土地問題で揉めていたことを知りました。

そんな経緯からか、隣の集落の男の子たちと川や田んぼで遊んでいた記憶のほうが強くあります。

自宅に招いて食事をご馳走してくれたり、親切で暖かい人が多い印象でした。

同時に、その頃から地元の保育所へ通い始めたのですが馴染めず、ほとんど、保育所敷地の外にある民家の畑の淵に座っているか、保育所で飼っていたうさぎ小屋で遊んでいました。

保育所の敷地外にいることで、保育士さんからよくたしなめられていた記憶があります。

その保育所へ入る前に、私の受け入れ先を探そうと、親と一緒に他の保育園や幼稚園を車で回った記憶がありますが、どこも受け入れを拒否されたようでした。

小学校に入ると、登校拒否になったり食欲不振による貧血で倒れたり、どうも生命力の弱い感じがありました。

中学校に入ってからは少しだけ元気になり、「学費1万円の地元の高校へ入学する」ことを目標に、部活動で内申点を稼ぎながら乏しい脳味噌をフル稼働させていた記憶があります。

今考えると、その頃は交感神経優位で寝ている間も緊張状態が続いており、成長期にもかかわらず毎日3~4時間くらいしか眠れていませんでした。

ただ、それくらい「心」を犠牲にしながら感情にフタをしないと生きられない環境だったのです。

当時は時間が過ぎるのが異様に速く毎日が秒で過ぎていきましたが、今考えると異常だったと思います。

同時に、恩師やお姉ちゃんと慕っていた近所の女性が自タヒしたり、親友が精神的な病になったり、親の病気が悪化したりと、ショックなことが続きました。

高校に入ると、月1万円の学費を自分で稼いで通っている子がいたり、すでに自立した考え方を持っている子がいたり、人間的に優れている人が多く、自分の心の幼さを感じることが多くありました。

それは、年齢に合わせた情緒が育っていなかったからだと後々気づくのですが、当時は知る由もありませんでした。

そんな田舎の土地に愛着がなかったため、高校卒業後はそれまで貯めたお金を持って1000㎞近く離れた所に住んでいた友人宅へ。

そこで1週間ほどお世話になった後、1人暮らしを始めました。

あのとき、私を置いてくれた友人とご家族には感謝してもしきれません。

そんな高校卒業後から数年前までの約15年間はいわゆる怒涛の日々でしたが、、、そうなってしまったのは情緒の未成熟と無関係ではないと思います。

個人的に思うのは、年齢に合わせた情緒をその時々にしっかり育まないと、後から育もうと思っても手遅れということです。

子どもの頃に感じるであろう、楽しい、嬉しい、悲しい、寂しい、くやしい、苦しい、辛い、おかしい、ムカつく、羨ましい、怖い、嫌い、すごい、むなしいなどの各感情。

それは、その時々で抑圧せずにしっかり感じながら、心に痛みを感じながら、そして受けとめながら、生きる必要があるのだろうと思います。

その時々で感じるはずの感情を無理やり抑えたり、自分を守るために偽ったりして、感じるべき感情から逃げていると、そのうち自分の感情が分からなくなります。

そして、親に甘える欲求

これを抑圧したまま満たせずにいると、社会人になって燃え尽きたり、うつ病になったり、パワハラ、セクハラ、モラハラに上手く対応できなかったりする可能性が高いです。

実家を出るまで「今辛くても苦しくても、きっと将来はマシになる」と思って、歯を食いしばって生きていましたが、、、その分情緒の発達を犠牲にしました。

のけ者扱いや邪魔者扱い、疎外された頃を思い出すのか、童話「みにくいアヒルの子」や映画「砂の器」を見ると涙腺が緩くなるので避けていますが、、、

いつか、そうした過去を笑って話せる人間になれるように、自分と向き合い続けたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました