幼少時代を思い出すと、親のスケジュールに合わせた忙しすぎる毎日をこなすのに精一杯で、
親から何かを聞かれることもなければ、親に対して何かを聞くこともなく(聞ける雰囲気ではない)、
今から思えば、ほとんど事務的な会話しかない親子でした。
おそらく両親とも自分たち自身の不安や葛藤を解決するのに精一杯で、
子どもに関心をもつ余裕がなかったからだろうと思います。
子どもを観察する余裕がない親
例えば、親が子どもに話しかければ一見関心があるように見えますが、
それは子どもが心配というよりも、親自身の不安を解消するために話しかけていることが多いのです。
子どもに関心のある親であれば普段から子どもを観察しているので、
子どもに普段と違う様子があれば気付いて話しかけたり、話しかけずとも見守ったりできるかもしれません。
しかし子どもに関心がない親の場合、子どもの異変に気付くのは子どもに何か起こってから。
結果、親は何か起こってからでないと子どもに関心をもてないため、
その異変がなぜ起きたのかについては関心がもてず、
その異変が一時的にでも解決すると、再び事務的な会話しかない親子に戻ってしまいます。
他者との関係の基本は親
子どもに関心を持たない親と接していると、それが他者とのコミュニケーションの基本となるため、
友人や社会に出てからのコミュニケーションでも同じ形をとります。
他者に無関心なうえ、相手を思いやるコミュニケーションができない子どもになる可能性が高いのです。
特に幼少期は、引っ越し続きで親との接触が少なかったためか、話しかけられた記憶がありません。
今考えると周囲に話しかける人がいないため、言語能力も発達していなかったと思います。
自分の感情を意識しにくい
そのような環境では自分の感情を意識しにくく、感情を適切に表現することも難しくなります。
もしかすると、親の感情に自分の感情が支配されている場合もあるかもしれません…
それでもなんとか出てきた自分の感情を抑圧しつづけると、
どんどん自分の感情が分からなくなり、いつまで経っても言葉に感情をのせて話すことができません。
自分の感情を意識することが不可欠
そんな風に10年以上、健全なコミュニケーションを養ってこなかったわけですが…
他人に対して健全な関心をもつためには(詮索や執着ではなく)、
自分の感情を取り戻すこと、感情を意識することが不可欠だと身をもって分かります。
『「普通がいい」という病』でも書かれているように、
まずは「感情の井戸」の1番上にある「怒」を排出し、感情を意識することが不可欠です。
感情は順番になっているため、「怒」を意識できなければ他の感情を意識することはできません。
上記の方法で繰り返し行っていますが、行うたびに効果を実感しています。
時間はかかると思いますが…
自分の感情を意識し、他者に対して健全な関心をもてるようになりたいです。