『EQ こころの知能指数』(ダニエル・ゴールマン、1998)に掲載されていたEQ5領域のうち、
今回は「4.他人の感情を認識する」領域について書こうと思います。
過去に紹介した領域はこちらです。
著者は「他人の感情を認識する」領域について、
共感もまた情動の自己認識の上に成り立つ能力であり、根本的な人間関係処理能力だ。第七章では共感のみなもと、他人の感情に音痴であることの社会的代償、共感が愛他主義につながる理由などについて考察する。共感能力にすぐれている人は、他人の欲求を表わす社会的信号を敏感に受けとめることができる。そうした才能は他人の世話をする職業や教師、セールス、経営などに向いている。(p86、87)
と説明しています。
以前知られていないEQ(こころの知能指数)の重要性で、他人の感情を認識する能力が高すぎると自分の感情が分からなくなり、結果として精神的な病を発症するのでは?と書きました。
が、著者は、
共感は情動の自己認識のうえに成り立つものだ。自分の情動に心を開ける人ほど他人の気持ちも理解できる(p181)
と述べています。
ということは、「他人の感情を認識する能力が高すぎると自分の感情が分からなくなる」と思っていたのは間違いで、
他人の感情を過剰認識してしまうのは、自他の境界線があいまいなど別の原因なのかもしれません。
著者によれば、
サディスティックな脅し、屈辱的な扱い、あるいは粗暴な親などの下で極度の情緒的虐待にさらされて育った子供たちは周囲の人間の感情を過剰に警戒するようになり、自分を虐待した大人が見せた感情に対して異常な敏感さを示す。他人の感情に対するこのような強迫的先入観は、心理的に虐待されて育ち成人後も「境界型人格障害」と診断される不安定な情動の揺れに苦しむ人々に共通して認められる。このような人たちの多くは周囲の人間の感情を察知する能力にすぐれており、幼少時に情緒的虐待を受けた過去を持っている場合が多い。(p192、193)
とのこと。
情緒的虐待を受けて成長した場合、周囲の人間の感情を察知する能力にすぐれるケースが多い、というのは経験として分かります。
ただその場合、察知する感情の種類が限定的になる場合が多く、だいたいが「不快」「怒り」感情に敏感なケースが多いと思います。
そんな限定的な感情察知が習慣化してしまっていると、「不快」「怒り」以外の感情察知には鈍感になるケースが多い気がします…
そんな感情音痴の状態では、
他人の言動に織り込まれた情動のメロディーや和音 ― 声の調子、身じろぎ、雄弁なる沈黙、隠しきれない震え ― にも、まるで気づかない(p181)
のだそうです。
個人的なことなのですが、私自身他人の不快感情には気付きやすいのですが、
それ以外の感情に対しては、気付いていても気付かないフリをしてしまう傾向にあります。
なんというか、他人の「嬉しい」「楽しい」を受容できないのです。
想像でしかありませんが、、、その原因は幼少期に覚えた「嬉しい」や「楽しい」といった感情を、
誰からも受容してもらえなかったためではないか、と思っています。
そんな風に不快感情以外の感情に音痴になった原因は、それらの感情が自分の人生に存在してこなかったためだと思いますが、詳細原因はよく分かりません。
他人がどう感じているかを察する能力は、セールスや経営から恋愛や子育てにいたるまで、あるいは気配りから政治的行動にいたるまで、人生のありとあらゆる場面で必要になる。
~(中略)~
人間の感情は、言葉よりも言葉以外のしぐさをで表現されるほうがはるかに多い。(p182)
とのことなので、少しずつでも感情音痴を克服して、周囲の人々の不快感情以外の感情も認識できるようになりたいです。
そのためには、まず自分の感情をまんべんなく認識することが不可欠なようなので、
抑えつけていた過去の感情の整理・浄化を今後も続けていこうと思います。
過去の人間関係を振り返ると、相手が私といて楽しい・嬉しいと感じてくれている場面に、
素直に共感できないことがありました。相手の気持ちが信じられなかったのです。
それは過去の情緒的虐待によって、他人の感情を限定的に認識する癖がつき、
自分の感情だけでなく他人の感情も、正確に認識できなくなっていたからかもしれません。
もちろん自己肯定感が低いとか自己無価値感が高いとかもあったと思いますが、
主な原因は自分の感情を限定的にしか認識できないために、他人の感情も限定的にしか認識できないことにあったと思います。
今後自分の感情をまんべんなく認識でき、他人の感情も同様に認識できるようになれば、
他人が自分と一緒にいて楽しいということを信じられるようになるかもしれません。
そうなれば他人の特定感情に怯えることもなくなり、自分の気持ちを他人に伝えることも怖くなくなるのかもしれません。