個人の「努力」ではどうにもならない現実もある

現代は生まれた場所(国、地域)、育った環境、親を含めた周囲の人間、外見、遺伝的能力、運など、

スタート地点が違うと、後天的にいくら努力しても挽回することは不可能…と思える世の中です。

もちろん、科学技術の発達により、少しずつ挽回可能になりつつあるのかもしれません。

また、こういう考え方は好みませんが……過去の酷い時代と比べればマシなのかもしれません。

しかしながら、それでも個人的には「運」がすべてだと思うことが多々あります。

それは過去の経験で、どう考えても運が良かっただけと思える現象に、数え切れないほど遭遇したからです。

もちろん、どう見ても運が悪かっただけと思える現象にも遭遇しましたが…

よくある運を引き寄せるらしい行動や言動をしていても、不運が続く場合もあったり逆もしかりで、

明らかに「運」と判断できることを数多く経験してきました。

そうしたことを現代では、個人の「努力」云々で片付けようとすることが多いですが…疑問です。

例え「努力」していても、「運」やその他後ろ盾がなければどうにもならないことも多い

もちろん、持って生まれた「能力」を尋常ではない「努力」によって、向上させているケースも数多くあると思います。

しかしながら、仮に「運」だけでなく「能力」もない場合、「努力」によってどうにかできる範囲は限られます

にもかかわらず、恵まれているのに恵まれていないと思っている人の中には、

恵まれている前提条件を無視して、誰かれ構わず「努力が足りない」などと罵ったりすることがあります。

多くの場合はセットで「やる気」を求めたり、精神論や根性論を振りかざしたりします、、、

技術や適性そっちのけで、個人に対して「辛抱」「我慢」「犠牲」を強いるのです。

もちろん権力層や支配層が自分たちに批判が向かないように、弱者同士でいがみ合うように仕向けている可能性もありますが。

ある程度のスタートラインから「努力」して得られるものと、どん底から「努力」して得られるものは違うのです。

それを一緒にして「努力」を強いるのは、遅かれ早かれ個人がつぶれるだけだと思います。

私は見えないものへの信仰心は多少あるものの、特定の宗教に興味関心はないため、

過去にあらゆる宗教からの勧誘を拒否してきましたし、今後もそのスタンスは変わらないと思います。

ただ、生まれながらに悲惨な境遇の人が数多くいる現実を知り、「運」がすべてだと思うことが増えるにつれて、

そうした組織に頼りたくなる人がいても当然かもしれない、と思うようになりました。

「努力」を否定するわけではありませんが、「努力」ではどうにもならない現実もある

結果、日本社会の支配層や権力層が、あらゆることで個人の「努力」に責任転嫁する姿勢が見えるたびに、嫌悪感を覚えてしまう自分がいます。

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