『反教育論』生きたい人生を追及し続けることが不可欠

最近読んだ『反教育論』(泉谷閑示、2013)。

これは、以前読んだ『「普通がいい」という病』と『「私」を生きるための言葉ー日本語と個人主義』と同じくらい興味深い内容が詰まっていて、1度読んで以降何度も読み返しています。

それだけ考えさせられる部分が多かったということなのですが、特に印象的だった部分を少しだけ書きだしておこうと思います。

「マザコン」という言葉が使われなくなったのは、むしろ「マザコン」がデフォルト(当たり前のこと)になったためなのである。

このような状態がデフォルトになってしまった背景には、母親がパートナーに求めるべき愛情の交流が期待通りに得られなかったり、自分自身の人生を十分に生きることを中途で諦めてしまったりしたことで、手っ取り早く自分の「分身」のように思える我が子に、それらの肩代わりを求めるようになった場合が多い。(p156)

こういうことって、戦後以降ずっと多いのかもしれません。

親自身の内面的空虚さを埋める代償行為としての「子育て」が正当化されている(p157)

場合、子どもは繊細であればあるほど、親の期待に応えようと自分の「心」を抑えつけて、真にやりたいことを封じて生きていくような気がします。

結果、自分の「心」がやりたいことではなく、親が喜びそうなことや世間的に評価されそうなことを「頭」で選んでやるようになり、どんどん「心」は空虚化していくように思います。

本来であれば、空虚な現実社会に対して「異議申し立て」を行い、少しでも意味のあるのものにしようと働きかけるのが人間としては自然な動きのはずだが、やっかいなことに、現代の若い世代にはその選択肢があらかじめ封じられてしまっている(p158)

そうです。

そのため、本来自分の人生を十分に生きるためには、「心」が「頭」を支配する必要があるのに、現代ではその逆が多くなってしまっているらしい。

結果、自分の人生を十分に生きることができないため、

浅薄な「世俗的成功」に目を奪われて夫は社畜化し、妻はそのフラストレーションを代償しようとわが子を囲い込み、株券のごとき投資対象として芸や勉強を叩き込み、淋しさを埋めてくれるペット代わりに溺愛(p159)

する現象が、多くの家庭で見られるのかもしれません。

何人か子どもがいる場合には、才能のある1人を溺愛するという現象もありそうです。犠牲になった子どもも可哀想ですが、それ以外の子どもも可哀想だと思います。

もし真に子供にとって「良い環境」があるとすれば、それは、子供に自分の人生のツケを回したり夢を託したりせず、愚直に自分自身の生を求めて生きる大人が身近にいるということ。つまり、親とか教師といった役割に閉じ込められたり、それを言い訳にしたりせず生きる、一人の人間としての大人の存在なのである。(p159、160)

と著者は述べています。

結局のところ、1人1人が自分が生きたい人生を追及し続けることが不可欠なのかなと思います。

「お上(政府)が決めたことだから仕方ない」と、受け身の奴隷メンタルで生き続けるのではなく、「やりたいことをやろう」「楽しく生きよう」と能動的に生き続けるのが良い気がしています。

「”自分探し”なんて言っているのは、逃げに過ぎない」とか、「”本当の自分”なんて、有りもしない幻想だ」「”自分探し”なんぞしてる暇があったら、とにかく何でもいいから働け!」といった言説が増えてきている。

これらは「自分自身を見いだす」作業を「逃げ」と見なしている点で共通しているが、実のところ「逃げ」ているのは、このような言説を吹聴している彼らの方である。(p217)

という著者の言葉は、自分と向き合いながら、真に生きようとしている人々の背中を押してくれる気がします。

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