新生活が始まって1週間が経ちましたが、仕事を教えてくれる人全員が段階を踏んでくれるので、なんとかやれている気がします。
少しずつハードになっていくと思いますが、、、なんとか頭を回転させながら頑張ろうと思います。
さて、幼少期から数年前まで趣味と呼べるものがなく、嫌いなものは山ほどあれど、好きなものはずっと分からない状態が続いていました。
その理由を自分なりに考えてみたところ、以下の3点が思い浮びました。
- 常に不安で防衛的に身構える癖があり、そうやって生きている間に自分の感情を失っていた
- 自他の境界線がなく、自分の感情よりも周囲の人間の感情を優先する状態が続いていた
- 情緒を形成するのに重要な時期に、十分な睡眠時間を取れていなかった
結果、何事に対しても薄っぺらい感情しか抱けず、好きなものが分からなかったのだろうと思います。
だからその頃の写真には笑っている顔がなかったのか…と今になれば分かります。
周囲に合わせて偽の感情で過ごす日々とはお別れしようと、家を出るときに当時の写真を全て処分したのもそのためだと。
そんな状態ではこれといった趣味が持てないだけでなく、自分の好きなことも分からないし、自我アイデンティティを確立できるわけもないと思いました。
で書いた『「自分の居場所」をつくる心理学』(加藤諦三、2010)には、
そんな自我アイデンティティがない人についての記載が豊富にあったため、興味深く読み返しました。
まず、
役割がないと安心できない人は自分に無価値観を持っている(p90)
そうです。
そして自我アイデンティティがしっかりいないと、他人の役に立つことを通してしか自分の存在を確認できないとのこと…
10代は親を必死に手伝っていましたが、、、
もしかすると、親の役に立つことで自分の存在を確認していたのかもしれません。
また、自我アイデンティティを確立できていない人は受け身であり、自分から相手に積極的に働きかけるということもないそうです。
おそらく、能動的に働きかけて相手に拒否された場合に、耐えられる強さを持っていない・傷付くのが怖いからではないかと思います。
以前の私がそうだったので…
そして自我アイデンティティがない場合、役割を通してしか周囲に受け入れられているという実感を持てないため、
その不安から逃れるために仕事に邁進したり、群れたりするというのです。
痛いほど思い当たります…
人はアイデンティティなしでは生きられない。自我アイデンティティが欠如すれば、それを補うために役割アイデンティティが強固にならざるを得ない(p149)
からです。
また、自我アイデンティティがないと自己無価値感にも苦しむ可能性があり、
自己無価値感があまりにも深刻になると、他人に利用されることさえ喜ぶようになる(p92)
といいます。
結果、他人から利用されれば「失礼だ!」と怒るべきところを、自己無価値感に苦しんでいる人は、
自分が他人にとってなくてはならない存在であるほうが安心なため、進んで利用されようとするようです…
自己無価値感に苦しむほうが不安なため、他者から利用され不幸になったほうがマシという思想…
社会の支配層にとっては、自己無価値感に苦しむ人間が多ければ多いほど都合良く利用できるため、
自我アイデンティティを確立させないようにしているのかも…と邪推してしまいます。
著者は、こうも書いています。
自分の世界を持っている者はそれほど他人の言動に敏感ではない(p93)
自分はこのようなことがしたいということがはっきりしていれば、他者が自分をどう取り扱うかというようなことにそれほど心理的に左右されない(p96)
また、
自我が確立して自分は何者であるかが分かってくると、人から居場所を与えられなくても自分で自分の居場所をつくれる(p97)
とも。
結果、役割を失っても(仕事をやめても、誰からも求められなくなっても、喜ばせる相手がいなくなっても、世話をする相手がいなくなっても)、
自我がしっかりしているため心理的に安定して過ごせるというのです。
他人の心ではなく自分の心を気にして生きる、自分のしたいことをするという姿勢が、
自我アイデンティティを強化するそうです。
以前疲れ切っていた頃は、まさに他人の心ばかり気にして生き、自分のしたいことはないがしろにしていましたが…
だんだんと自分1人でも楽しめるものが見つかってきたためか、少しずつ自我アイデンティティができてきたように思います。
今後もなるべく仕事中心の生活にならないように、自我アイデンティティを確立していきたいです。