他人に苦労を強制する人は、苦労が身になっていないのかも

何度かご紹介している『「普通がいい」という病』。

精神科医である著者の鋭い指摘が詰まっている事と私の理解力が乏しいために、何度読んでもその度に腑に落ちる部分がある本です。

今回はそんな本から「苦労が身になる」人と「苦労が勲章になる」人、という項目を抜粋します。

「苦労が身になる」という言葉がありますが、「経験」をした人は苦労が身になりますが、一方「体験」止まりの人は、苦労は身にならず「勲章」になります。苦労が「経験」になっている人は、よほどこちらが質問しない限りは、自分からは苦労話をしないものですが、「体験」の人の場合は、こっちが聞いてもいないのにうんざりするぐらい苦労話をしてくれます。

「苦労が身になる」というのは、まさに身になってしまったわけですから、もはやその苦労は本人の一部になっている。そういう人からよく聞くのは「あの苦労があったからこそ、今の自分があるのだ」という言葉です。苦労が勲章のように外側にぶら下がっている人は、「苦労は買ってでもしろ」と言ったりしますが、その苦労で当の本人は実質的には変化・成長していなかったりします。

「身になる」というのは、「質」的に深い変化がその人に起こることです。ですから、その出来事がたとえ小さなものだったとしても、「経験」として深まることで、いろんなことにつながる普遍性が獲得されます。ですから、自分がそうなったことのない他人の状態についても、その人の思いや、その人にとって今は何が必要かというようなことが、自分の「経験」から適切につかめるようになるのです。「体験」止まりの場合には、「自分はそうなったことありませんので、わかりません」で終わってしまう。

~中略~

「体験」には、「経験」のように普遍性がないので、他のことには応用が効かないのです。(p198~199)

本文に紹介されている森有正氏の文章も抜粋します。

経験ということは、根本的に、未来へ向かって人間の存在が動いていく。一方、体験ということは、経験が、過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうことです。

だから、どんなに深い経験でも、そこに凝固しますと、これはもう体験になってしまうのです。これは一種の経験の過去化というふうに呼ぶことができましょう。過去化してしまっては、経験は、未来へ向かって開かれているという意味がなくなってしまうと思うのです。

上記文章を読みながら、痛いくらいに納得してしまいました…

当の本人は苦労によって成長した様子がなく、そのため他人にも苦労を強制してしまう…

まさにその通りです。

そんな自分が嫌になって仕事を辞めたこともあるほどです…

苦労していても他人の気持ちを推しはかれる人とそうでない人がいるのは、苦労が身になっている人と勲章になっている人の違いだと思います。

その苦労によって本人に深い変化が起こり、その意識が未来へと向かうものであるならば、他人が苦労している際の気持ちも推しはかりやすいはず。

ですが、未来へ向かわない過去のある一点に固執する苦労の場合、その人の内面は成長しないどころか、

他人への不要な苦労を強制することとなり、他人の気持ちを推しはかれる可能性は低そうです…

結局のところ、苦労した本人がその苦労をどう捉えて、その後をどう生きているかが重要なのだろうと思います。

数々の苦労から学びを得て、それが本人の一部を形成するものとなった場合、

誰かに話す類のものではないと思えて、わざわざ他人に話すことはしないと思います(というかそんな余裕はない気がします)。

が、苦労を勲章化できてしまうということは、過去の苦労は現在の自分とは繋がりがなく、その苦労はその人自身に深い影響をもたらしていない。

だからこそ、他人にもベラベラと話せてしまうし「苦労は買ってでもしろ」と言えてしまうのかもしれません…

「経験」苦労をした人が、「あの苦労があったからこそ、今の自分がある」と言えるのは、

その苦労から自分なりの「学び」を得て、受動的ではなく能動的に生きているためかもしれません。

なかなか苦労から学びを得ることは難しいですが…

今後、過去を振り返ったときにはそこから学べることはないか、考えられる人間でいたいと思っています。

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