多数派ではなく少数派なら、大通りよりも小道を行く【前編】

何度もご紹介している『「普通がいい」という病』。

今回は「マイノリティの苦しみ」「小径を行く」「メメント・モリ」「死に近づく人間」という項目を抜粋します。

なぜ今回この項目をご紹介するかというと、自分自身、後ろ向きな意味で少数派だという意識を持ちながら過ごしていた時期があり、

本文に書かれていた内容に強く共感する部分があったからです。

もし自分以外の人間がみな同じ病気で自分だけが病気じゃなかったとしたら、その人はどう感じるでしょうか。そう、たぶん「自分がおかしいんだ」と考え、自分をみんなと同じ「正常」に変えなければならないと思うことでしょう。

多数派をマジョリティ、それに属さない少数派をマイノリティと言いますが、クライアントの苦しみは多かれ少なかれ、何がしかの資質において、それがマイノリティであるために起こっているものだと考えられます。しかし、彼らがマイノリティの部分で感じ取っているさまざまな違和感は、マジョリティの人間が気付かずにやり過ごしている問題を敏感に感じ取っていることが多く、聞いていてなるほどと思わされることがよくあります。(p206)

閉鎖的村社会である日本では、特にこの「正常に変えなければ」という傾向が強いように感じます。

もし自分の構成要素に少数派と感じるものがあっても、その部分が所属する社会で誇れる要素であれば、

そこまで違和感を覚えず「正常に変えなければ」等とは思わないかもしれません。

が、そうではない場合は村八分にならないように・仲間外れにされないようにと、周囲に合わせようとする場合が多い気がします。

ここで著者は、ジョーゼフ・キャンベルの「言うまでもなく、思考に関しては多数派はいつも間違っています」という発言を用いて、

民主主義における多数決原理は、ある一つの便宜的手段に過ぎないこと、

そして多数・少数ということが、決して物事の価値を計る基準にはならないことを指摘しています。

 マーケティング原理が支配している今の時代では、多数に売れるものこそが価値あるものだと捉えられてしまう傾向がありますが、そこでは、浅薄でお手軽なものが大きな顔をしていたりすることがよくあります。そんな中では、物事の本質を敏感に感じ取る人間ほど、いろんなところで違和感を覚えるでしょうし、そのために本人が、いつの間にかマイノリティと位置づけられてしまうかもしれません。(p207、208)

経済中心である現代日本では、「多数に売れるものこそが価値あるものだと捉えられてしまう傾向」が顕著。

また、現代日本は表面的には民主主義のため、多数決原理で進めていくことは仕方がないとも思います。

ただその際、多数派だけに価値があるという固定観念を植え付けるような教育や空気を、野放しにしておくことには疑問があります。

少数派の問題を考える上で分かりやすい話として、著者はアンデルセンの『みにくいアヒルの子』を紹介していますが、

この話の大事なポイントとして、著者はみにくいアヒルの子が最後にアヒルよりも大きく美しい白鳥になるところを挙げています。

それは、少数派であることに苦しんでいた著者のクライアントが、白鳥になるような変化を起こしていく場面をたくさん見てきたがゆえの説得力ある視点でした。

ちょっと長くなってしまったので、続きは多数派ではなく少数派なら、大通りよりも小道を行く【後編】に書きたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました