先日突然『みにくいアヒルの子』が読みたくなり、ネットであらすじ確認後に本屋さんへ買いに行きました。
当時読んだ、ソフトカバーの正方形の本ではなくハードカバーのものでしたが、画風が似ていたので購入。
なぜこんなに読みたいのか不思議でしたが、読み始めてすぐに涙が止まらなくなり合点がいきました。
にも書きましたが、みにくいアヒルの子がどこへ行ってもイジメられたり、
家族からも除け者・邪魔者扱いされたりする様が、幼少期の自分と似ていたからでした。
幼い子どもにとってどこにも居場所がないことが、どれだけ自分の存在への信頼を失うことになるのか。
この本を読むと、それを痛いほど感じます。
似たような理由で、『マッチ売りの少女』にも共感できる部分があります。
「自分の存在が、親や周囲に何かしらの価値を与えてこそ認められる」というような条件付きメッセージが感じられるからです。
自分はここにいていいのかと、幼少期からずっと自宅に居心地の悪さを感じていましたが、他の兄弟にはその感覚がないようでした。
親を積極的に手伝い、親の言いつけを守り、文武両道の優等生でいるよう努めていた私とは違い、
他の兄弟は言われた時しか手伝わず、親の言いつけも適当に聞き流し、親に怒られても自由に遊びまわっていました。
私は自分の存在を信頼できず、相談して親に拒否されたり否定されたりする恐怖に耐えられなかったため、
自分の価値を下げるような(パシられていること、イジメられていること、怪我したこと、その他諸々)相談は、親にはできませんでした。
親には褒められそうなことしか話せなかったのです。
しかし他の兄弟は、そうした相談を何度も親にしていたのです!
それを親から聞いたときはビックリしたと同時に、羨ましいと思いました。
拒否されたり否定されたりしても大丈夫という自分への信頼と、
拒否されたり否定されたりすることはないという信頼関係が親と築けていたからです。
私とは違って、自分の存在への信頼があるんだと思いました。
私と親は上辺だけの関係で信頼関係とは程遠い親子でしたが、他の兄弟は違ったのです。
『みにくいアヒルの子』には、そうした部分でも自分の境遇と重ねてしまいます。
重ならないのは、みにくいアヒルの子が美しい白鳥になる部分だけです。